syawaabiruの日記

赤裸々発言

魂の叫び

目の前の現実と乖離したその世界を知っている。世界をわかりたいという欲求はとりもなおさず幸せになりたいという欲求に他ならない。私が触れた限りの西洋哲学は軒並み嘘臭く、その点西田は少し違うように感じていた。私たちの秘密はそんなに難しいものじゃない。体系でも歴史でもない。不立文字。西田は生涯かけてこの真実に肉薄したが、説明可能な範囲での思索に固執するあまり世界と己が身を引き裂いてしまったように見える。人の真面目さはよくよく裏目に出る。哲学は私を私から遠ざける。考えているとき大体においては支配されている。マリア・シュナイダーが日本に来ている。ブルーノートで初日の1stをとった。少し聴いた近年の作品はダークで筋肉質で、半ば賭けだったけれど、杞憂だった。ホームタウンの波打つ緑、サイロ、地平、家々の灯り、世代、記憶、、アコーデオンが楽園の鳥となり、私たちを夜明けの空の星々へ導いた。驚くことに御年65歳の彼女は、ひたむきさと爽やかさに溢れ、素直な音楽に胸を打たれた。それで、そのことを日記に書きつけているうちに、ウィチタ・ラインマン、ペドロ・パラモ、黄色い雨、、どこのものともいつのものとも知れぬささやきのようなもの、一即多多即一、主客未分、と芋づる式に彼を思い出した。その頃は自分の頭の中で四苦八苦、こんなに解放されている状態があるなんて思いもしない。透明だからぼんやり滲む。風呂の水、窓の外の富士、日暮れ、半球。頭が働いているうちは感じ入ることはできない。その点、西田の頃よりは易しい世の中になってきていると思う。一時期彼の考えに没頭したのは、彼の言うことにでなく、知っていてわかれない、手放すことができないという、魂の叫びに共感していたのかもしれないと思った。

寒い予報で脅されつつあたたかい

先日から自分の心境というか、状態に静かだが抜本的な変化があって、飲み始めた薬の影響を疑ってみたり、これをどう表出させるべきか(また、気まぐれに態度を変えて…)、と右往左往してた。気晴らしに、信頼のおける友達に会いに行ったり、映画を数本観たりして、そうすると深く頷ける一節や、混沌の中の点と点を結ぶような音の連なりを耳にすることになった。外の人たちは書き表せる方法を通して私の内側を指し示し、助けてくれる(本当に大事なものは意外と少ない)。7万のラタンチェアからは遠く隔たり、何も無い場所からこんこんと湧いてくるものを感じている。。何がそうさせたかと言えば、それは時代のような感じもする。愛すべき人があらわれないのではなく、愛と呼べるものへの抵抗があっただけであり、あれがないこれがないと言い立てていた対象についても、以前の自分がつくり出した幻だったことに気がつく。愛があれば大丈夫とうたわれた(気持ち悪っと思っていた)世界も今はそのまま存在するように思える。数日、すべて吹っ飛ばすような強風が続き、家の窓が大きく鳴っている。

外は雨が降ってきた!

小学校のクラスメイトが、なぜかみんなのにんじんをねぶっているから止めたら、うるせえ!とピーラーで腕を剥かれる夢をみた。。小さい頃学校は、おそろしいバカと屁理屈にあふれ、誰の母ちゃんがデベソとか、本当に意味不明でくるしかった。。あの収容施設で、愚にもつかない嘲笑や、嫉妬したりはぶいたり、偏狭な教師の評価ともかかずらうことはもはやない!大人になって超幸せだなと痛感しまくった。おーいいまは自分の家にひきこもって適当に仕事し、なんのストレスもなく暮らしているぞー。最近高いイスを買おうとしてたけど、高いイスがなくても充分幸せなのを忘れてたよ。

この上ない日

今日は会社の部の感謝の会のあと、友だちと(!)またゆっくりお酒を飲んだ!いまは最高。本当にこんなことあるなんてね、、これからはこの上ばかりだ!昨日ECMからシフとキースのコンピが出ていて、そのついでにふとケルンコンサートのCをきいた。カッツのことを一気に思い出して、このあいだ夢にもみたけど、そしてわたしになんかのご飯を作ってくれたけど。今のわたしを見たらカッツなんて思うかな?もしいまも生きてたらどん詰まりのカッツをちょっと笑わせるくらいはできるかもと思った。カッツより面白い映画も音楽も知っているかもよ。結局は自分次第なんだけど、人は時代のさなかを生きている。あーあーわたしはカッツのこと大好きだった!テレンス・ヒルのまっすぐな瞳。生きていれば一緒に、お酒も飲めたのにね!生きていれば、なんでも素晴らしいのに!郁ばあちゃんに、湘南しらす送ろ。たくましく生きているたつじんのアドバイス

わーい

漬けようと思って出したきゅうりを、2本とも台所に放ったまま横になってスマホ見てて、音楽ききたくなって、前のプレイリストからメルドーの2020年4月のアルバムに行き着いて、その時の雰囲気が蘇って、思えばコロナがあってから、本当遠くまで来たなぁと思いながら聴いた。誕生日の朝トイレに起きて、スタスタ歩いてる時「お誕生日おめでとう」と寝ぼけ頭にかすかにきこえた、囁いてくれた声を、それを信じなくてなにを信じる?世の中の物語、胸を打つ約束や、同行二人、信じてるということは、どの他人との話でもなく、全部わたしの中にいるその子(子⁈)との絆なのだと今感じる。コロナ以降暫く、無駄だったと思っていたことが、今日では違った。小さいときから、読むことには、求める心の景色があり、やっぱり見たい景色を沢山見てきたんだと、今日の素直な自分の糧になっていると思えた。それで、なおさら嬉しかった日でもあった。で、大学のお金を、ちゃんと返そうと思いました。申し訳ありません!